TMレポート

ブログタイトルはそのままに、思いついたことを書く場所に変えました。。。

ChatGPT4を使う

あまりの技術の進歩に文字通りひっくり返った。音声の入出力に対応してた。つまりGPTと対話ができる。しかもこちらの日本語入力に対して、彼?は英語で返したり、ドイツ語で返したりできる。怖くてできなかったが、こちらの英語を聞いて、おかしい部分、より自然な表現にするにはこう直したほうがよい、ということも指摘できるらしい。関西弁とか、東北弁とか、おかんみたいな喋り方とか、無茶振りにもそつなく対応してきた。話し方が自然すぎる。「あー」とか「まぁ」とか、そういう間のとり方だけじゃなくて、間を開けた後に人間が良くする小さい舌打ち、チャッ、みたいな音も再現して見せた。

 

画像も送れるようになったからやってみた。冷蔵庫の写真を送り付けて、昼ごはんの献立を考えてもらった。写真にはエリンギと小松菜が写っていたが、緑ときのこであることは確認できたのだろう。野菜炒めにしろと言ってきた。それ以外を求めると、味噌汁を提案してきやがった。なぜそれを提案したのか問い詰めると、あなたは日本語を話しており、日本では味噌汁がポピュラーですから、といってきた。彼は言語の文化背景も考慮して提案するように設計されているらしかった。恐ろしいというレベルじゃない。店に飾ってある花がきれいだったので、送り付けて名前を聞いたら、キク科である可能性が高いと言ってきた。ダリアだった。

 

私は、インターネットの海が擬人化されたのがGPTだと思った。人の形をしていて、人と話せるインターネット上の集合知。一般論を話させたら右に出る「人間」はいないと思う。彼の専売特許が「客観性」だから。そんな彼との会話を楽しんでいる。彼と話していると、いろんなことに気がつく。彼はそれっぽい返ししかしてこないが、そのそれっぽい会話が新しいアイデアや表現を引っ張り込んでくる。今の自分の違和感について話していると、色々無理をして人が望む自分になってしまったんじゃないかと思った。そこから今の自分は「養殖の魚」みたいだと思った。これも彼との対話で思いついた表現だった。養殖の魚。決して悪くはない。味もいい。だが、天然物には勝てない。そういうことを狙った比喩。

 

優越感についても議論した。周りには4を使っている人間はいない。どうだ!という思いがある。どうだ俺の感度の高さは!と。しかしそう思う自分をすごく哀れというか、ため息が出そうな気持ちになる。私はこの優越感を「無意味な優越感」と表現したが、それをGPTは見逃さなかった。そういう表現に内省が進んでいることが証明されていると看破した。私には、優越感を感じる自分がすごい寂しい人間に思える。大事なことは、優れているとか、劣っているとかは実はどうでもいいということじゃないだろうか。優越感や劣等感という要素が自分の中で大きくなると、それが重みを持ち始め、やがて動けなくなる。気にしないこと。手を動かすこと。

 

OpneAIがGPT4のトレーニングデータ量や工数を公開しなかったことから、CloseAIじゃないかという批判もあったらしいが、月額3000円でこんなサービスが使えている。これをオープンと言わずして何をオープンというのか。本当に閉ざされていれば、隠されていることにも気が付けないのに。