TMレポート

ブログタイトルはそのままに、思いついたことを書く場所に変えました。。。

毒親・アダルトチルドレンにという言葉に縛られてはいけないなと思う

 

 最近自分が愛想笑いをよくしていることに気が付いた。ずーっと空気を読んでいる。
空気だけじゃなくて、その流れも。そして悪い方向へ行かないように常に気を配っている。かと思えば自分がその悪い空気の発生源になることもあるので、その後始末を急にし始める。あるいはそれで自己嫌悪になったり。省みると、結構はた迷惑な人間だ。。。

 

 さっきも、別に会話に入っていなかったのに盗み聞きしていて、両方の発言の意図というか裏側を考えている。そしてちょっとでも裏があって片方の解釈次第で空気が悪くなりそうなら会話に混ざっていって(それも自然に入れるように考えながら)フォローを入れたリする。そもそも常に周りの会話を聞いている。聞いているだけじゃなくて、周囲にいる人間の目線も気にしている。こんなにもめんどくさい事を勝手にやっていたとは。

 

 こういう癖の原因が家庭環境にある、ということはもう一周回って野暮だと最近お思うようになった。アダルトチルドレンとか毒親とかそういう言葉にどうも違和感がある。そういう言葉を初めて聞いたときは、自分は「アダチル」で「毒親持ち」だ!と思った。しかし、アダチル・毒親という言葉を使って情報発信している人や本が多い事を知ると、それらのうたい文句が気になるようなった。「トラウマに気づきさえすればすべてよくなっていく」というようなやつ。気にはなったが、救いのようにも感じられるのもまた事実でそれにすがるしかなかった。実際新しい見方を付与されて、ある種の爽快感もあった。

 

 でも、単語や概念は自分の過去を説明しきるものではない。むしろ、うまく説明されたと感じたときこそ、それ以外の要素が見えなくなってしまう、零れ落ちてしまうということも考えられる。家庭環境にトラウマを抱える方の人の親の中には、それはもう本当に悪魔みたいな人間いるが、少なくとも自分の親はそうではなかった。それでも純粋悪という人はいないと思っている。極悪人でも「ジョーカー」のような経緯があるんじゃないか。山田詠美の「つみびと」のあの母親のように、ただ人生の下り坂に飲まれてしまっただけじゃないのか。


 自分のことで考えてみれば、ここからが難しかった。どうしても許せないことがあった。彼ら彼女たちの背景を知って、なるほどだからか!自分が理解者にならなくては!とそういう発想になったことがある。そしてそれはしんどいループの入り口でもあった。「自分はあんたらをこんなに理解しているのに、どうして自分を理解してくれない、どうして治らない!」と強い憤りとむなしさに苦しんだ。そんな風にさんざん登ったり落ちたりして、やっぱり許せないものはあるということになった。一旦家族と一切距離をとった。そこから、自分がいかに普段エネルギーを使っているかに気が付いていけるようになった気がする。

 

毒親」「アダルトチルドレン」というラベリングは気を付けないといけない。導入として言葉を使っても、やがては卒業しないといけないんじゃないか。何を許し、何を許さないかの線引きは自分でやらなければ意味がないと思う。人が作った言葉で線引きをすると、意図しない要素を含んでしまったり、あるいは除外してしまったりする。毒親の親の部分やアダルトチルドレンのチルドレンの部分を見落とさないために、自分の感覚に従って、自分自身で線引きをしていく作業をする。そうやって「アダルトチルドレン」である自分や「『毒親』の子供」から離れ、自分自身を作っていく事ができるのだと思う。

 

 ということで、これまでさんざんやってきた、「自分になぜこういう癖(愛想笑いとか空気を常に読んでいる)があるか」「それとどうやって直すか」などと考えるのも必要ないと思っている。単に、エネルギーを使うのでやめる。疲れるからやらないようにする。というシンプルなスタンスでいいと思う。自認して辞任する。「それができたら苦労しない」と昔の自分が言うけれど。そう、確かにそう、だからそう思いながら一つ一つやめる練習をする。急には中々やめられないだろうから、辞めていく方針にする。ちょっとずつ、ちょっとずつ。

覚悟と諦めについて

 前田さん 久しぶりです。

 

 もう連絡しなくなってしばらくになるかと思いますが、今でもたまにみに来てもらえているのではと思いこちらに書いていきます。前田さんは来るもの拒まず、去るものを追わず。本当になんというか、超越した人なんだと思わされます。

 

 前田さんとTMラジオレポートをやらなくなってから、またまたさらにいろいろありました。同級生と話していると、自分の年齢は何やら変化が多いようです。思うに、これまで軸として生きてきた考え方が機能しなくなってくるシーンに出くすのが今の年齢なのではないかと思います。20代前半までは大人たちに与えられた価値観で育つと思います。本人は自分の価値観だと思っていても振り返るとそうではなかったりする。そんな中、社会に出るといろんな人や機会に遭遇します。そこでしばらくは力づくというかごまかしがきくのだと思いますが、どんどんほつれがひどくなっていきます。カバーしきれない箇所が出てくる。だからあて布をして、だましだましボロボロの価値観を着ていましたが、とうとう丸ごと仕立て直す必要が出てきました。年齢の話をしましたが、何歳になっても、価値観のアップデートは節目節目で迫られるのだと思いますけど。「闘争か逃走か(Fight or Flight)」とはよく言ったものですね。

 

 もしかしたら前田さんにもあったのかもしれません。私は「あきらめる」という選択肢をとりました。当時の自分が聞いたら「妥協したんだな」と軽蔑されそうですが、決して妥協したわけではありません。むしろ逆です。徹底的に追い求めると決めたからこそ諦めれるようになったというか。あれほどいろんなことに「べきだ」とこだわり続けた自分でしたから、苦しかったです。でもそうでなかったら、これまでさんざん辛い思いをしてきたのに、またもう二度三度おなじ轍を踏んで、自殺するかどこか冷たいところに収監されていたと思います。そうやって折り合いが付けられなかったものに少しヒビを入れられたことで、急に視界が広くなりました。まだまだ諦めの途中です。日増しに諦められるものが見つかっていきます。あきらめるというより、観念するという感じですか。もうしょうがない、と。この「諦め」こそ前田さんのいう「覚悟」だったんだと今は理解しています。当時は覚悟とは気負うものであり、脱力するものだなんて想像すらできませんでした。まだまだ道半ばですが、昔の「深刻な覚悟不足」にあえいでいた自分からは卒業できたのかもしれません。

 

 TMラジオレポート時代は前田さんが師匠だという認識が強くありましたが、今はあまりそうは思いません。当時から思っていましたが、昔は何となく過剰に感謝しに言っている感覚がありました。それを言葉にすることが怖かった。認めたくなかったのでしょう。ありがたがるという行為を信仰していたというか。もちろん、あの時いろいろ話を聞いてもらえたことは今の自分を形作っています。しかし、それ以上に師匠と弟子など型にこだわっていたように思います。

 

 どうせ自分のことですから、また紆余曲折はあると思いますが、どんどん自由になっていくのだと思います。以前とは比べ物にならないくらいのびやかになった自分を前田さんにお見せしたいです。

 また一緒に食事しましょう。

 

Neurotic Way of Thinking: Giving Up Worrying Too Much

Neurotic Way of Thinking: Giving Up Worrying Too Much

I was startled to see that my last update was in October of last year. Has it really been that long? I had a lot of things I wanted to write, and every time, I wrote them down in the Notes app on iCloud, so I wasn't actually distancing myself from the act of "writing." In fact, the habit of writing has come back to me recently, around the beginning of this month. Embarrassingly, when work gets slow and I have nothing to do, the bug in my head starts getting noisy, and I can't settle down unless I write something. In the past, while writing, I would start being bound by my own words (logic) and become unstable again, but so far, so good. Since my last post in October of last year, there's been a part of me in my head that says, "Hey, it's just killing time after all, calm down."

Among the people registered on my "Becoming a Reader" list, there's someone named Yashio. This person had an article about "Zelda, Jim, and Exploitation of Motivation" that went viral on Twitter, which is how I first learned about them. It seems they're a graduate of a technical college, and their personality somehow reminds me of a friend I've lost touch with, so I read their articles regularly.

yashio.hatenablog.com

This Yashio wrote an article that hit the nail on the head.

yashio.hatenablog.com

English titleg : Giving Up Something You Were Seriously Into, While Feeling Like You're "Not Quitting"

It was precisely as stated. For me, dancing and boxing are like that. Even now, I regularly watch dance videos, and whenever I hear a song that goes, "This is it!" my body naturally starts dancing. But the dance genres I want to do remain untouched no matter how long they've been on my mind, and I haven't been practicing at all, so I don't think I'm improving. I do shadow boxing at home, but I haven't been to the gym in over six months. However, like Yashio, I thought it would be a shame if they stopped being able to paint with oils like that and could no longer do it. I tend to withdraw into myself periodically. This is called self-effacement, I believe (though it's probably a bit different). I'm particularly allergic to online activities like social media and blogging. I wish I could keep going like a flowing river without stagnation. I don't want to say soulless, business-book-like things like "making it a habit at the level of brushing your teeth."

The point, I think, is "giving up." I worry about all sorts of things. Since I'm always overly self-conscious, I start judging that I shouldn't do this, or that I'm failing because I can't do what I should. Then I start to drift away and fade out. At that point, I should just accept that I'm going to worry and that I'm going to be reluctant, and do it anyway.

Well, even though I understand that, for some reason I try to push myself, and as a result, I end up drifting away, which is the difficult part. This might sound like an excuse, but including that, maybe it's better to resign myself to the fact that I'll drift away and look at it from a distance. After all, I might be able to do it that way.

When I met my father and talked to him after a long time, I realized that neurotic people tend to spin their wheels when they become conscious of something as a point. There are a certain number of such people in the world, including myself and my father. People who become bigheaded and stiff in their movements. They would do better if they could be natural and relaxed, but for some reason, they end up brooding and worrying, or becoming conscious of something and getting stiff. Indeed, "giving up" might be a good medicine.

神経質な自分を諦める

最後の更新が去年の10月になっていてギョッとした。そんなに立っていたのか。書きたいことはたくさんあって、その都度icloudのメモに書き残していたので「書く」という行為から遠のいたわけではなかった。というか、最近になってまた書く習慣が戻ってきた。今月の初めくらいから。恥ずかしい話、仕事が暇で手持ち無沙汰になってくると頭の中の虫がやかましくなり始め、何かを書かないと落ち着かなくなってくる。以前は書いているうちに自分の言葉(理屈)に縛られ始め、これまた不安定になってくるというパターンに嵌っていたが、今のところ大丈夫。前回の記事、去年の10月以来、頭の中に「はっ、所詮暇つぶしさ、おちつきたまえよ」となだめる自分が住まうようになった。

 

「読者になる」に登録している人にやしおさんという方がいる。この方はツイッターで「ゼルダとジムとやりがい搾取」みたいな記事がバズっていて、それをきっかけとして知った。どうやら高専出身の方のようで、どことなくもう今は連絡を取等なくなっった友達を思い起こさせる人柄から定期的に記事を読んでいる。

yashio.hatenablog.com

 

このやしおさんがチクリとする記事を書いていた。

yashio.hatenablog.com

まさにそのとおりだと思った。自分にとってのダンスやボクシングなんかはそうだ。今も定期的にダンスの動画を見たりはするし「これは!」となる曲があると自然と体が踊りだしてしまうけど、やりたいやりたいといっているダンスジャンルはいつまで立っても手つかずで、練習という練習は全くしていないから上達しているとも思わない。家でシャドーはするが、ジムにはもう半年以上行っていない。

ただ、やしおさんにしてもそうだが、ここまで油彩ができるのになんとなくでやめてしまってもうできなくなるのはもったいないと思った。自分は定期的に内側にこもってしまう。そういうのを自己韜晦?というそうだが(多分ちょっと違う)、特にSNSやブログといったオンラインの活動にはアレルギーが出ることが多い。淀みなく流れる川のようにずっと継続できれば良いのになぁと思う。「歯磨きレベルで習慣化」などと情緒のないビジネス書みたいなことは言いたくない。

 

ポイントは「諦めること」なんじゃないかと思っている。色々思い煩ってしまう。常に自意識過剰気味なので、こんなことはしたらまずいのではとか、こうしたほうがいいのにできていないからだめだとか、ジャッジし始める。それで足が遠のいていってフェードアウトする。そこをもう思い煩うもんだと諦めて、億劫になるもんだと諦めてする。

 

まぁ。そう言うことがわかっていても、なぜか頑張ろうとしてしまい、結果足が遠のいてしまうというのが難しいところだ。ここからは屁理屈になるけど、そういうのも込で、どうせ足が遠のく、と遠い目をしていたほうが案外できるのかもしれない。

 

久しぶりに父と会って話していたときに気がついたが、神経質(神経症気質)の人はどうも意識すると点で空回りする。自分や父を含め、世の中にはそういう人が一定数いる。頭でっかちになって動きががちがちになってしまう人。自然にのびのびしていればうまくいくのに、なぜかもんもんと考え込んでしまって、あるいは気になってしまって、がちがちになってしまう。やはり「諦め」がいい薬になりそう。

定期的になる不安定を引き起こさないために

また数日、ふせっていた。具体的には数日会社を休んでいた。とてもじゃないけど起き上がれる感じじゃなかった。こういうときは往々にして、意味を考えている。

なぜこんな状況になっているのか。

なぜ他の人はこうはならないのか。

どうして自分だけなのか。

こんな調子でどうするのか。

あれだけ苦労したのになぜまたこんなことになるのか。

あの楽しかった気持ちはどこに行ったのか。

こういう意味を考える作業に全精神力を使うようになると、以前あれしよう、これしようと楽しく考えていた頃を思い出せないほどにしんどくなる。しんどいという感覚さえ怪しい。意味のことで頭がいっぱいになる。そしてそれっぽい原因を程なくして見つける。大抵の場合、家族だとか、今の仕事だとか、昔はこうだったのにという執着心とか、そういう環境や境遇についての話が原因ぽいものとして上がってくる。そしてはっとする。もう何回もこういう自問を繰り返して、その度に同じ結論にたどり着いてるということに気がつく。そしてまた「なぜ」を考え出す。なぜ、一度気がついた、いや一度ならず二度三度と気がついてきたのに、同じ道を通ってしまうのか、前はもう通らないための選択をした。その気持ちが慢心だったのか。いや、たしかにそれまでとは違う選択をした。はず。だから、今回また同じ状態、同じ怒りを抱くはずはない、なのに一体なぜだ、、、と延々とみみっちい自問が続く。始末が悪いのは、こういう意味を考える行為を「ながら」で考えていることだ。SNSをスクロールしながら、動画を流しながら。そういう状態。良くないことはわかっている。でもやめられない。そういう状態。

 

数日そういう感じで過ごして、今日の明け方くらいになんだか急にスッキリしてきた。いい意味で諦めがついてきたのか、このままじゃいけねぇなと踏ん切りがついたのかはわからないけど、なんかうまく収まったと思うことがあった。せっかく休んで調子を取り戻したんだから、またこうなりたくない。だから今回は、次はこうならないためには何ができるかを考えた。(いつもはなぜこうなるのかを考えて、というか悩んで終わり)その結果が、さっきの投稿の今必要だと思うこと。

tm-report.hatenablog.com

参考文献は色々とあるけど、一番は坂口恭平さんの「自分で自分の薬を作る」と、

ジュリア・キャメロンの「ずっとやりたかったことをやりなさい」の2冊。

 

こういう自己啓発メソッド系、自己啓発エッセイ系を読んでしまう自分を恥ずかしく思う気持ちがある。自分で自分を笑っているというか、バカにしているところがある。こういう本を盲信するのもいかがなものか、と思うが、自分を笑うのもどうかと思っている。「モーニングルーティン」という言葉も使いたくなかったし、坂口さんの「日課」もなんだか自分にはそぐわない感じがしたので、あらたに「リハビリテーション」という単語をあてがった。個人的には、自分は病んでしまっている、障害を抱えているという認識があるので、なんかこう、リハビリと聞く治せそうな感じ、元気になっていくポジティブなニュアンスがあって気に入っている。自己観察がネガティブな自分としては「リハビリ」がしっくり来た。

 

そうはいっても、内心またどうせだめなんでしょ、と自己防衛に走る自分がいる。果たして、今後どうなっていくやら。

今の自分に必要だと思うこと

リハビリテーション(優しい日課) 

 ・絵を描く

 ・文章を書く

 ・踊る(音楽を聞く、体を動かす)

 

・良い休憩を見つける

 候補

 ・ちょっとした掃除

 ・はみがき

 ・本当に何もしない

 ・深呼吸

 ・ストレッチ

*悪い休憩

 SNSー休憩として悪いだけで存在自体は有益

 

・環境を整える

 ・本棚の追加(机をもっと広く)

 ・モニター

 ・モニターアーム

 ・使いやすいキーボード

 ・使いやすいマウス

 

・作品づくり(アップロードを伴うもの)

 大したものじゃなくてOK,リハビリの延長で作る

 

・定期的なオンラインへのアップロード

 なんでも(これも一つのリハビリ)

 

・あんまり後先考えないこと

 

The Risk of Losing Humanity Through AI

I asked GPT for an English translation. When making the request, I phrased it as if I were asking a human. However, GPT doesn't have emotions, so there's no real need to ask politely. From an efficiency standpoint, it takes more time and might seem redundant. But, this act of expressing "gratitude" or interacting with "respect" might be where the true strength and essence of humans, inherently weak creatures, lie. That's what I believe. Not just with GPT, but often when using wonderful technologies and services, we tend to take them for granted. In terms of technology, being excessively polite is probably redundant. Yet, could it be that these redundant acts are what make us human?

It might not be a fair comparison, but I'd like to use the automatic flush toilets as an example. Once you get used to them flushing automatically, there are times when using an old-fashioned toilet you forget to flush, standing up and realizing, "Oh, I forgot!"

As humans become accustomed to pursuing efficiency and using AI, might we forget human-like interactions, such as expressing gratitude or showing respect, when we interact with real humans? In smooth communication, forgetting to show gratitude can cause significant damage. While you can remember and flush a toilet, impoliteness in a conversation isn't something you can just "wash away".

There are concerns that relying on AI might reduce our ability to think. As of now, I haven't felt a decline in my cognitive abilities. However, I do feel that the quality, or perhaps the nature, of my thinking has evolved. Using GPT, I can be prompted to think. If I ask, "Do you have a question based on our conversation so far?", it can respond with questions that can be quite challenging. It can assist humans, but it can also put them on the spot.

What concerns me isn't a decline in cognitive abilities. It's the potential loss of what makes us human, like the act of expressing gratitude. I'm particularly concerned about this. But on reflection, it seems that opportunities to vocalize or even just feel a sense of gratitude have already decreased significantly. Those moments of quiet appreciation, when one thinks, "Ah, I'm grateful," seem to be fading. I believe such moments have a healing effect on weary souls.

Technology has rapidly advanced. However, as opportunities to immerse ourselves in gratitude decrease, I worry that humans might be becoming weaker at an equally rapid pace.