数週間前から胃腸の調子が悪く、しばらくマシだった痔も復活してしまいました。ご飯を食べると腹痛に悩まされていたので内科にかかりました。かなり激しい痛みになることもあり心配していましたが、エコーの結果は便やガスがたまっているとのことでした。
デジャヴです。中学生のころ、脇腹の強い痛みで盲腸を疑い、CTを撮ってもらったら、う〇こでした。母には今でも「う○この画像に1万2000円」といじられます。便秘が進むと、宿便というものになるようです。便が宿るってすごい。「便りがないのは元気な証拠」とはウソなんでしょうか。
私は心と体の関係に関して、ややスピリチュアルな考えを持っています。
心で押し込めたものが体に出るのではないかと思っているんです。中学時代の宿便もそうだったように思います。
相手に暴言をぶちまけたいのをこらえているときは、決まって大きな口内炎ができていました。口の中の炎ですよ。暴言を押し黙っているから、やけどしたんでしょうね。最近は暴言を吐いてやりたいとあまり思わなくなったためか、もう半年ほどできてません。
口内炎とは長い付き合いでしたが、入れ替わるようにやってきたのが痔でした。
「やまいだれ」に「寺」と書いて「痔」。心の中で和尚と修行僧を立てて、問答を重ねているのでしょう。体内に寺を建てねばならないほどの悩みがあるときに痔ができると思っています。
さぁ、そんな私がいよいよ原始仏教に出会ってしまいました。内なる和尚ではなく、本物の仏様を迎えたわけであります。
原始仏教の勉強・実践を初めてだいたい丸3か月くらいたちました。思えば始めた2か月くらいは痔もやや鳴りを潜めていた気がします。しかし先述の胃腸の問題があり、また再びインナーテンプル(内なるお寺)がこんにちは。
胃腸の調子を崩し始めたここ1ヶ月は少々厄介な仕事を担当していました。イライラするたびにブッダの教えを使って、怒りをコントロールしようとしていたのですが、結局は抑圧していたのだと思います。ずさんな図面管理や諸問題に対する見て見ぬふり。危険な作業もおかまいなし。そうした周囲の姿勢に腹を立てては「彼らにも事情がある」と打ち消していました。
私はこれを「反・怒り」と名付けました。
怒りを相殺するために、共感の体をとって同じだけ強い感情で怒りを打ち消す操作です。理性的で非常に強力な手段ですが、普通に怒るのと比べて2倍のエネルギーが必要な計算になります。
「反・怒り」は仕事だけでなく日常生活のいろんなところで使っていることにも気が付きました。
例えば自動車の運転。割り込みをしてくる車に一瞬いらだっても「急いでいたのかも」「自分もそういうときがあるし」と打ち消します。
そんなに怒ってはないんですよ。でも、感情の針がピッとたってしまうのもまた事実。
運転中という状況なら「反・怒り」は有効かもしれません。扱う感情がそこまで強くないですから。しかし安全にかかわるような仕事の現場でこれをするとなると話が別だったのでしょうね。
実際、とにかく工事を進めようとする担当者とやり取り中に「反・怒り」を使っていたのですが、胃腸のすさまじい収縮を感じました。強い怒りでしたが「彼にも後に控えたテストがあり、止めるわけにはいかないのだ」と気持ちを落ち着けようとしていました。
私がとった戦術(共感による打ち消し)がまずかったわけではないと思います。実際、相手に寄り添う感情で彼に対する怒りは収まりました。
しかし、担当者への怒りは消えても、工事を進めてしまえる会社のシステムには強い怒りを感じ続けていました。
では、私はどうすればよかったのでしょうか。
ここで、大きな見落としがあることに気が付きました。「怒りと共感が両立できない、してはならない」という思い込みです。
原始仏教において大切なことは、如実知見(にょじつちけん)だと思います。物事をありのままに見ること。しかしこれがなんと難しいことか!実践の中で次第に「学んでいるからよくなっていくはず」「実践しているから問題は小さくなっているはずだ」と封をするようになっていたのでしょう。
これは如実知見に反します。実際私は怒りながら彼に共感していたわけですから。怒りがなくなるはずだと思い込んでいるからおかしなことになったのだと思います。もともとは矛盾しないことを無理やり矛盾させようとしたから、またお寺が建っちゃった。
ガスも自然にたまるものですよね。それを無理に抑えこんだから内圧が高まって胃痛になるわけです。
このことに気が付くまでは、ちょっと落ち込んでいました。イマイチ修行の成果を感じられなかったからです。しかし、修行によって感情や体の動きをとらえられることができるようになっているからこそ、対立と両立の取り違えに気が付けるようになったのだと思いました。
もちろん処方された薬も飲みますが、何かが変わるきっかけになるといいなと思います。