TMレポート

ブログタイトルはそのままに、思いついたことを書く場所に変えました。。。

嫌いな食べ物に見る、嫌いな人への対処方法

この人のことをどうしても嫌ってしまうとか、
発言とか行動とかが妙にムカムカする、という人がいる。そういうとき、そんな風に思ってしまう自分を責めたり、どうやってすきになるか考えたり、なぜ嫌いになってしまうか分析したりする。苦手な人、嫌いな人に対してそうやって対処しようとすることに何の疑問も抱いてこなかったし、そうすべきだとさえ思っていた。でも今ふと、「嫌い、苦手」という共通項で思い出したものがある。「嫌いな食べ物、苦手な食べ物」だ。

 

自分はエビが苦手だ。見た目や味が苦手。そんなエビにどうやって対処しているかというと、極力食べない。それだけ。エビのどの部分が嫌いとかは考えても、どうやったら食べられるようになるかなんて考えたことがない。状況的に食べざるを得ないときや、たべれるかも?と気の迷いを起こして食べたりするたびに、うーん、やっぱり嫌いだなぁ、おいしくないなぁと思う。でもそれを吹聴して回ることもしない。聞かれたら答えるけど、それも遠慮がちに言う。エビが大好きな人も多いから、自分の好きなものをまずいと言われると、いい気がしないだろうなと思うからだ。この「苦手なものに対する自分の対応」を苦手な人にも全く同じように当てるとすっきりした。

 

・苦手な人を極力避ける
・状況的に避けられない場合は、
「やっぱり苦手だなぁ」と思いながらなるべく一緒にいないようにする。
・いちいち「あの人嫌い、苦手」ということを周りに言わない。その人が好きな人もいるから。

 

非常にシンプル。エビもエビのことをおいしいと思う人が食べた方がいいだろうし、自分の苦手な人も「『私と一緒にいて楽しい』と思ってもらえる人と一緒に居たい」と思っているに違いない。だから無理に合わせる必要もない。

 

この苦手な食べ物と苦手な人との似た関係をさらに応用するといろいろなものが見えてくることが分かった。例えば基本的にはエビ全般が苦手だけど、食べたくなるほどではないにしても、エビフライやエビチリくらいなら割と食べれる。他の味がするから。
つまり調理方法や何とセットかによって好みが変わる。人間に置き換えてみれば、同じ苦手な人でも、この人と一緒にいるときなら別に腹が立たない、ということがある。
そういう時は「○○め!△△がいるときはネコかぶりやがって!」などと怒りを増幅させるが、これは自分で自分をさらに怒らせている。そのきらいな人のせいでは決してない。生のエビが食べられなくて、エビチリが食べれるときにエビは一切悪くない。
「あ、味付けが違うからだ」と思うのが普通だ。

 

苦手なエビの中にもおいしいと感じるエビもいた。高級すしで食べたクルマエビや結婚式で食べたオマールエビはおいしいと思った。人間でいえば横柄な人が苦手だが、横柄だなぁと思っても腹が立ったり、うざいとまではならない相手もいる。むしろかわいいと思ったり、こういう性格だからこそ偉大なことをなせたんだなと思ったりもする。エビにしろ、苦手なあの人にしろ、あくまでその時その場所でのそのものが苦手なので会って、同じような特徴やタイプの人すべてがNGというわけではない。このことに気が付けば、自分の可能性を広げられるし、悲しい差別をしないですむから、自己矛盾に悩むこともない。

 

他にもいろいろ思いついてきた。苦手だった食べ物が好きになるということも経験した。ナスの色や食感が嫌いだった。でも今はあのつやっとした紫や、みずみずしいトロンとした食感が大好きだ。人は変わるので、嫌いだった人も好きになるかもしれない。
大嫌いなあの人のあの部分が、だからこそ大好きということになることはナスの例から全然あり得る。

他にも、苦手なものの側面をいろいろ考えてみる。
エビは食べ物として嫌いであって、生き物としてのエビは嫌いじゃない。むしろちょっと好きな気さえする。水生生物なのに虫みたいに外骨格を持っているし、でも虫と違っておいしいとして人類に食べられている。イセエビなんかの鎧のような殻があって、生き物として見た目がかっこいいなと思う。苦手なあの人も同様に、一緒に働く近しい存在としては苦手だが、普通にあの人個人としては尊敬しているところがたくさんある。
ただ、その尊敬しているところが自分に向いて発揮されるとなぜかイライラしてしまう。これはエビの外骨格(見た目)をほめておきながら、エビの身から出る旨味が嫌いと言っているのに非常に似ている。あくまで、無理なものは無理ということでもある。生き物としてエビをとらえると、人間との関係性はうすい。人間は水生生物じゃないから、普通に生きていたらまずエビとは出会わないので関係性は薄い。一方で、食べ物としてのエビは人間にとって非常に身近な存在でもある。スーパーには必ず売っていて目に入るし、いろんな国で食べられているし、メインディッシュを張っていることも多い
こういう事例から、関係性の濃さによって好き嫌いが変わる、という構造を読み取れる。


ところで、自分は嫌いな人にイライラしなくなることを人間的成長だと思っていた。だから苦手を克服することがすごい事で、大事なことだと思っていた。でも、苦手な食べ物≒苦手な人だと考えれば、もしイライラしなくなっても人間的成長という高尚なものではないことが分かる。たんに嗜好が変わっただけ、ととらえる方がしっくりくる。
だから苦手な人や嫌いな人から逃げること、イライラしてしまう気持ちに向き合わず、
あえて考えないようにすることは「逃げ」のような否定的なニュアンスを持つ行為じゃないことが分かる。仮に苦手な感情に向き合ってコントロールできてたとしても、エビが食べられるようになったこととそんなに違わない。その恩恵は確かに大きいのかもしれないが、だからと言って人格者になるわけでもないし、偉業というほどのことではない。こうやって考えることで、自分のこだわりからすこし自由になることができた。気がする。

 

まとめ
・嫌いな人は極力避ける。
・どうやったら仲良くできるかは考えない。
・状況的に避けられない場合は、
「やっぱり苦手だなぁ」と思いながらなるべく一緒にいないようにする。
・避けた方が、嫌いなあの人にとってもおそらくプラス。
・いちいち「あの人嫌い、苦手」ということを周りに言わない。その人が好きな人もいるから。
・苦手な人も、状況や別の誰かとの組み合わせによって、何とも思わないこともある。
 それを、その人をもっと嫌いになる理由にせず、「味付けや調理方法の違い」程度に思うと良い。
・ある性格的傾向が苦手でも、それ当てはまる人がすべて自分の苦手な人になるとは限らない。
・嫌いな要素が大好きな要素になることもある。
・関係値の濃い薄いで好きか嫌いかが変わる
・苦手を克服することは別にすごい事でもない。単に嗜好が変化しただけ。
 =やろうと思ってできるものでもない。