TMレポート

ブログタイトルはそのままに、思いついたことを書く場所に変えました。。。

文体と心境について

なんであれ、人が何か行動を起こすと、おのずからその人らしさというのが湧き立ってきます。文章を書くこと、絵を描くこと、楽器を弾くこと、歌を歌うことなど、いわゆる創作活動のみならず、単に歩いているだけ、立っているだけでさえ、その人らしさが出てくると感じます。

 

さて、さきほどちらちらと書いた記事を見返していたのですが、なんだか自分らしくないなぁと思いました。無理をしてそうというか、わざと雰囲気を作ろうとしている、そんな印象を文体から受けたのです。ややこしい話になりますが、そういう意識的なものにとらわれていることに、ある意味で自分らしさを感じる気もします。

 

ということで、文体をですます調に整えて、今回は書いています。ですます調の方がすっきりした気持ちで書けるというか、さっきでいうところの無理してる感が薄いです。意識的にですます調にしているというより、なんとくしているという感じでしょうか。

 

などと考察していると、文体にはその時の自分の心理状態が反映されている気がしてきました。もしまた、である調に文体が戻っていたら、何か力みすぎていたり、べき思考が強くなっている時期なのかもしれません。

 

そう思えば、ノートを見返していると、文字の充填率にムラがあることに気が付きました。昔はそれはもうびっちり書いていたのに、最近は結構スカスカです。いや、スカスカというより連想ゲームみたいに吹き出しをたくさん書くようにノートをとることが増えました。

 

びっちりこまごまとノートを取っていた頃は、寧ろそういう行動で、より一層思い詰めるようになっていたのかもしれません。映画「タクシードライバー」のトラヴィスにもそういう描写があったように思います。私は文字や言葉というものを意識の象徴として捉えています。となると無意識や感覚は言葉にはできません。仮に近づけることはできても、それは芸術の範疇になりそうです。文章を書けば書くほど、感覚的に物事を捉えることから離れて、意識的、単一的に物事を捉えることになっていくと分析しています。もっとも、当時はそうと分かっていても、それが止められないことに苦心していたのですが。

 

文体によって自分の心理状態に気付けるのなら、その文体を変えることで心理もも変えられる、と考えるのは傲慢でしょうか?結局、「文体を変えて気分を変える」というのは意識的な働きかけによるものです。これは、お金を返すためにお金を借りている、そんな堂々巡り的な行為かもしれません。あるいは、追いかけるから逃げられる、というような。

 

ともあれ、その時の文体は自己を観察する1つの指標になるのではないか、と考えています。