TMレポート

ブログタイトルはそのままに、思いついたことを書く場所に変えました。。。

検索と前田さん

 

先日、仕事ではじめておこられたというか、たしなめられた。

貴重な経験だったと思う。

声を荒げるでもなく、理不尽でもなく、毅然とした態度で静かに自分の悪いところを指摘された。「調べたらわかることを私に聞きすぎだ」というものだった。

それを振り返っていて、ふと前田さんを思い出した。

彼と一緒に働いていたころ、恋愛相談によく乗ってもらっていた。

こういう時はどうしたらいいですかとか、

なにからしたらいいですかとか、

それはもう幼稚園児も引くくらいに質問していた。 自分が逆の立場だったら、いくら良い後輩でもうっとうしくかんじていたはずだ。 しかし彼は懇切丁寧に、こんこんと、相談に乗ってくれたし、意見を言ってくれた。 こちらの立場に立ったアドバイスもくれたし、共感もくれた。おんぶにだっこ、おしめも変えてもらい、お乳までもらっている。

 

今思うと、これは「前田さん」という検索エンジンに「恋愛でうまくいく方法」と入力しているようなものだ。それでいくら実践してみたところで「自分だけの経験」で得られる学びにはたどり着かない。なぜうまくいかないのかと、考える「ふり」をするのがいいところだろう。本人はそれで考えたつもりなのだが。

ところで以前、年下の男の子にマッチングアプリの使い方についてあれこれ聞かれたことがあった。現代の恋愛相談みたいなものだ。

ちょっとめんどくさいな、と思った。

でも、めんどくさいというのも実はちょっと違う。 相談者は自分よりも機転が利く、頭の切れるヤツだった。 私に聞かず他人などフル無視でやれば、すぐ望みの結果にたどり着きそうな気がしたのだ。自分も聞きまくっていた側の立場にいたので、相手の心理もよくわかる。

「そうかもしれませんけど、とにかくどうやったのか教えてください!」である。 たたき台というか、ひな形を欲しがってしまうのだ。そっちの方が効率がいいから。

しかし、この「効率」が落とし穴だと思う。

「聞いてしまう人」と「聞かれる人」になって感じたことをまとめてみたい。

実体験に基づけば、誰かの方法論をたたき台に自分のやり方を構築しようとすると、実は効率が悪く無駄が多い、と振り返る。他人の基礎と自分の基礎は違うのだ。注目すべきは、実際に自分の目の前で起こったことのはずが、聞いた方法論と現実がどう違うのかと考えたり、あの人はできて自分にできない理由はなにか探したり、どういう経緯であの人はこの方法論に至ったのか、などとそういう分析に知らず知らずのうちに時間を割くようになる。方法論と照らし合わせている現実も、実はゆがめてとらえている。方法論越しにしか現実を観察できなくなっているからだ。何かに挑戦し出したら、嫌が応でも、できるようにはどうしたらいいかを考えることになるし、焦らずとも思いついたことを試したくなる。 やる前からあれこれ聞くことで、効率アップを図るはずが、かえって悩みの種を増やすことになってしまう。いただいたの先人の知恵も足かせになる。

(もっとも、この「かえって損をした」「無駄が多かった」というのもその後の人生の助けになると考えている。)

仕事でもそうだった。マニュアルを欲しがったし、自分の技術を言語化できていない上司にいら立った。社会人を数年経て、そんな昔の自分を「学生」だったと振り返る。学生生活には答えが用意されていて、それを見つければよかった。しかし社会人生活には明確な答えがある方が特殊だ。言語化に関しても、もちろんそれができるに越したことはないが、たいていの場合そんな余裕はない。(余裕がないことを言い訳にしてもいけないが。)短時間でマニュアル化してみて、マニュアルを作るほどの作業ではなかったな、と思うこともある。

結局、知覚するのも思考するのも行動するのも、この「私」である。 方法論を教えてくれた人ではない。生まれも違えば考え方も感じ方も違う。 行動によって変化するのも「私」、うまくいかなくて悩むのも「私」である。 この一連のプロセスが「自分の頭で考える」ということではないだろうか、とにらんでいる。

こんなめんどくさいこと、時間がかかって当たり前である。

それにしてもよくあんな面倒な相談にいやな顔一つせず付き合ってもらえたな、と思う。先ほど話に出た年下の彼とは、あの時の自分の対応がまずかったのだろう、疎遠になってしまった。昔の自分なら前田さんのように、自分も嫌な顔一つせず相談に乗れる人になる!と思っていただろうが、今は思わない。 何かになろうと目指すのが悪いことだとは思わないけど、何かを見誤っていそうだな、と感じるようになった。

さらに進んで、その「何か」を解き明かさなくてはいけない!とも思っていたが、それも思わなくなってきた。いくつかのあこがれはまだ抱いているが、それが若さだろうか。若さというと少し聞こえがいいが、幻想や執着だと推測できる。前田さんも今のような性格になろうと思ってなったというより、結果的にそうなったのだろうと分析する。

そんな風に、物事のとらえ方が変わりつつある自分を見て、子供から大人になろうとしているのかも知れない、とぼんやり考えている。