TMレポート

ブログタイトルはそのままに、思いついたことを書く場所に変えました。。。

#4【付録】怒りのケース分析

ケース分析 「ふてくされ」

 

《怒ってしまったケース分析 怒りのながれ》

蛇口の開度を最大にして開いて、加湿器の水を入れる

蛇口の元が破裂する

 

その後

 

先輩に蛇口が破裂した経緯を説明する

私「蛇口の開度を最大にして入れてたら、、」

課長「最大にするから」

私「いやでも、するでしょう(はやくたまるし)」

課長「いや、俺はちょろちょろやで」

私「(ほんまか?)じゃあ俺が悪かったってことですか?」

課長「、、、いや、蛇口が悪いねんで」

私「いやいいっすよ、やり方が悪かったんです」

 

周りがちょっと私をフォローするような感じに。。。

 

《直後の感情の動き》

最後のセリフの時、血圧がグワッと上がっているのを感じた。

これまでは結構怒りを引きずることが多かったが、今回は全くだった。

そこに自分の成長を感じた。と、その当時は思ったが。。。

でも、自分の中であの怒りを正当化していたと感じる。

逆に怒ってしまったことや周囲にフォローさせたことに対する自己嫌悪もなかった。

そんなもんか、という程度。

 

《書き出した感想》

 小さい!!!!!

なぜこんな小さいことでむきになっていたんだろうという気持ちになる。

どうして瞬時に強く反応してしまったのだろう。

小さいことに反応するということをやっぱり「感度がいい」と解釈する。

→人の発言の意図の裏側やそこに潜んでいる感情の機微を読み取る癖がある

 そういう風に生きてきたので感度が高くなってしまい、過敏に。

 

問題は感度の高さではなくて、過剰に反応してしまうほうにある。

つまり、相手の発言に自分を責めるようなニュアンスが含まれていても、

別に気にならなければそれでいいのだ。

 

《気にしないようにするにはどうしたらいい?》

蝶集め」(#4−2に記載)がキーポイントになるか

この手のこういうシチュエーションに自分は怒りを感じてしまいやすい、ということを把握しておくことで、次にこういう時が来ないか待つようになる。つまり自分を試したくなる。自分の心の動きに徹底して認識的になることで、怒りという気持ちを見過ごす(あくまで発生は抑止できないと考える)ことができるのではないだろうか。

 

《余談》

分析は解体。

感情は走る馬みたいなもので、一緒に乗って初めて制御ができる。

感情を分析しても、それは馬を解体することになってしまい、もはや肉塊、馬とは呼べない。

分析した感情はもはや感情と呼べるものではない。

アドラー心理学 精神科医 野田俊作ー

 

(うろおぼえ、、、)

野田氏の書籍によるこの解釈から考えると、怒りを解体してもう怒りとして存在できないようにしてしまったのかもしれない。

別途記事にしたい。

 

《自分はどうしたかったのだろうか?》

思い返しても、同じところでイラっとしている気がする。

かぶせて言われたところ

=追撃

自分に責任があると思っていないのに、悪者にされたような感じがするところ。

=冤罪に錯覚する

まったく反応しない。

ユーモアで返す。雰囲気を乱さない。(起こったと相手に感じさせない)

「水かぶったのに、やり方にも水をささないでくださいよー笑」とかか?

感情を乱さない。揺さぶられない。のが理想。

自分の心の平静を乱されないようにすること。

 

《不安》

 書き出して怒りのケースを考えると、本当に些細なことなのでそれ自体には一切不安も不満もない。どうでもいいものだったと自分の中で処理できるのだが、こうした態度をとることに不安を覚えるのだ。

「自分にとって何でもない小さなことだった」と見過ごすことが、

結局同じ過ちを引き起こすことになるのではないこと恐れているのだ。

また同じように怒りを呼び起こすようになってしまうのではないか、

何も学ばない人間になってしまうのではないかと恐れている。

 

怒りはだれしも感じるし、自然発生的な部分も多く、根絶やしにすることは不可能だと思う。

しかしその一瞬の感情の波を大きくすることなく、あたかもなかったようにすぐさま沈めることはコントロールできると思う。

現にこのように、もうこの怒りはどこかへ行ってしまった。何にそんなに怒っていたかもよく思い出せない始末である。

つまり、怒りという感情をやり過ごすという戦略にそこまで恐れを感じる必要もないと考えられる。

もちろん、そうだからと言って、自分の対応に改善の余地がないわけでは一切ない。

 

 

(怒りを伴うことがあったときにどうやって対処しようか?)

(ケースのような場合が次もやってきたら、どういう対応をするのがのぞましいか?)

イラっと来る発言をされても、スンとしていたらよかったのだ。

「俺が悪かったんですね」ということによって自分の怒りを刺激してしまっている。

実際、それをいってしまってから耳が厚くなり血圧の上昇を感じた。

 

《まとめ》

 正直アップするのも恥ずかしい小ささだが、自分の反応を細かく見ていくことは重要だと思っている。セネカの教えにできるだけ則っていくという意味も込めている。セネカは現代にはいないため自分の解釈で進んでいくことになるが、これが善く生きるということにもつながっていくのではないか。えらく真面目になってしまった。