TMレポート

ブログタイトルはそのままに、思いついたことを書く場所に変えました。。。

井の中の蛙は「大海」を知らなくてもいい?

 

 

井の中の蛙大海を知らず」

 

それはそれはよく耳にしますし、よく口にすることわざですよね。特に最近転職市場が盛んの様ですし、日本の将来を不安視する声も多いため(自分もそのうちの一人です。)、使用頻度も上がっているのではないでしょうか。そういう世間の潮流を受けて、ますますこのことわざを聴く機会が増えているのではと感じる今日この頃であります。

 

 

このことわざが登場する文脈って、「大海を知りましょう」という前提があると思います。たんに「カエルって広い海しらないよねぇ」という事実確認のことわざではなく、少年よ大志を抱け的な、もっと広い海へ出て自分を試してゆきなさい、というような先人からの教訓が込められています。

 

 

しかし、はたして本当に「井の中の蛙」は「大海」を知るべきなのでしょうか。私は、カエルがもし海を知ったら、その瞬間に死んでしまうと思いました。カエルは海水に耐えられるようにできていない。浸透圧で体の水分が抜けて1分と持たないのではないかと思いました。そう考えると「大海を知らず」でも問題ないことになる。むしろ大海なんて知らないほうが井の中の蛙にとってはいいことになる。揚げ足取りですね。でもここに先行き不安な時代を生きるヒントがあると思ったのです。

 

 

では、何が本当の問題でしょうか。それは井の中「だけ」しか知らないことだと思います。ここで別のカエルを見てみます。

 

古池や 蛙飛び込む 水の音 

 

松尾芭蕉の俳句を参照しました。井戸の中だけじゃなく、古池で生息しているカエルもいるようです。問題の核はこれだと思いました。大海を知る必要はありませんが、井戸だけではなくて、いろんなところに自分の居場所がある。それを知らないことこそ本当の問題ではないか、というのが私の主張です。大海には居場所はなくても、池でも他の井戸でも、小川でも、いろんなところに顔が利くカエルでありたいと私は思います。

 

 

カエルから人間に話を移してみますと、我々を取り巻く環境は、まさに井の中といってもいいかもしれません。とにかくクローズなコミュニティです。であればこそ、いろんな生息域をもっておくとしなやかに生きれそうです。

 

 

では、新たな生息域を求めて井の中から出るときの注意点は何でしょうか。それは、飛び出すときの姿勢だと思いました。

 

井の中のカエル

「俺にはもっといい環境がある、こんな狭いところではダメだ」

 

こういう姿勢の何が問題かといえば、この手の理想探しは終わらないということです。どんな井戸(社会)にも良さ悪さがあると思います。環境や待遇の優劣ではなく、結局どれだけマッチするかの大小しかないと思うのです。しかしこのカエルのように、自分の心の中の理想を現実の環境に追い求めると、ないものを求めていることになり、不平不満をどの環境でもいうことになります。そんなカエルは、行く先行く先の生息域で嫌がられるでしょうね。本来の目的、自分の居場所を複数持つ、から離れてしまうことになります。ついつい理想を他人や周囲に求める自分としては、気を付けたいところであります。

 

 

ところで、私はこのことわざが嫌いでした。まるで大海を知らないことがダメなことのように聞こえるからです。謙虚さを説いている側面もあるのかもしれませんが、なにかと卑屈な自分には逆効果でした。だから、今回の考察を踏まえて、語感良く変えてみたいと思います。

 

 

井の中の蛙 大海を知らず とも良い

されど 古池や他の井を知るべし

 

 

こんなところで、一つよろしくお願いします。